富弘美術館へ行った帰りに本家である花輪の足利屋へ寄り、本家の菩提寺・祥善寺にも寄って墓参りをしてきました。
私の曽祖父の松﨑浅吉は「大正5年8月24日没 行年69歳」と墓誌に刻まれています。逆算すると、幕末の弘化4年(1847年)生まれということになります。
明治10年(1877年)、古川市兵衛が廃山寸前の足尾銅山を買い受け、渋沢栄一も経営に参加し、明治16年には新たな大鉱脈を発見して一躍日本一の銅山になりました。そのころ、栃木県足利出身の浅吉は足尾銅山に行商に通い、やがて銅(あかがね)街道の宿場町として栄えてきた花輪宿中野に店を構えました。最初は松﨑屋という看板を掲げましたが村人が足利屋と呼んでいたので看板を足利屋に架け替えた、というエピソードを父からよく聞かされました。
明治30年(1897年)の正月に浅吉が発行した引札(チラシ暦)には、港で荷物を船に積み込む様子が生き生きと描かれています。当時は銅や生糸が主な輸出品でした。明治時代初期、大間々出身の吉村屋幸兵衛は大間々や群馬県内の絹市で集めた生糸を横浜に集め、それを輸出して財を成し、「横浜の三巨頭」と呼ばれるまでになっていました。
松﨑浅吉はこの引札を通して、郷土を誇りを伝えたかったのかもしれません。