萩原康次郎著『間々はゆりかご』の「長澤薬師」のページを読み返していた時に、興味深い一文を見つけました。
「…(長澤薬師から)孫兵衛辻子に再び出ると、正面に胡桃下稲荷が見えた。数十年前と少しも変わらぬ姿に見惚れて…」
この辺では、屋敷稲荷のない家はないというくらい鳥居とお稲荷さんの祠はどの家の庭にもあるので今まで気にも留めていませんでしたが、初めて聞く「胡桃下稲荷」という名前に興味を持ちました。
早速、胡桃下稲荷がある境野さん宅に聞きに行きました。
「明治時代にうちのお爺さんと内田さんなんかがどっかへ行ってお札をもらってきたんみてーだけど、よくわかんねーなー。胡桃の木の下にあるから胡桃下稲荷って言うんだんべー」ということでした。
話を聞いているうちに、「もしかしたらどこかに胡桃下稲荷という神社があって、そこからご分霊をもらってきたのではないか」と思い、ネットで調べてみました。すると驚いたことに、日本三大稲荷の一つ、笠間稲荷の別名が胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)であることがわかりました。詳しいことを知りたい一心で、恐れ多くも笠間稲荷神社へ電話をして、「明治時代に群馬県大間々へご分霊をしたという記録は残っていませんか」と聞いてみました。折り返し、オオタ権宮司様という方から電話をいただき、「まずは祠の中にお札か何かが入っていないか調べてみてください」とのことでした。
再び境野さんに聞いてみると、「火事になっちゃったから何も残ってねーと思うけど、物置の奥の方を調べてみらー」と言って、探してくれることになりました。
そして昨日(4月7日)、「やっぱりお札とか書いたものはなかったけど、昔の旗が出てきた。見てみるかい?」と電話をもらい、早速見せてもらいに行きました。茶箱に入っていた旗には「大正十五年弐月弐午 奉納胡桃下稲荷大神」の他に、「奉納 笠間稲荷神社」と書かれている旗もあり、笠間稲荷様を祀っていることがはっきりしました。境野さんも、「へー、笠間稲荷だったんかい」と。
人間の記憶というのは時間と共に薄らいでゆきます。記憶を記録しておくことが大切だと思いました。
境野さんの家にあった梯子と脚立を使って、旗を広げてみました。
4メートル以上もある赤と白の大きな旗が2本、そして、小さな旗が何本も立てられていたであろう往時の初午や弐の午の賑わいを思い描いて心が躍りました。
来年の初午には、数十年ぶりに、この旗を再び掲げてみたいと思いました。