「ながめ余興場」は、シベリアに抑留されていた当時の父にとっても特別な存在でした。今朝の上毛新聞の連載「生きる芝居小屋④」でもその話が紹介されています。
ウラジオストクから家族に宛てたハガキはソ連軍の検閲のためか全てカタカナで書かれています。
「父上、母上、ちよ、そして弟たち、みんなお元気ですか。また、弘平はその後何か便りがありましたか。自分もお陰で相変わらず元気で皆さまに会える日を何よりの楽しみに毎日毎日を送っております。まったくこのたびこそ少なからぬご心配をおかけしましたが、とにかく何一つなすことなく、また、何も感ずるなく、命令によってこうしているわけですから、決して変なご想像をなさるにはおよびません。もう高津戸のあたりも紅葉できれいでしょう。「ながめ」は相変わらずやっておりますか。みなさんお元気で…。小林さんによろしく」
父が出征したのは昭和17年11月26日だったことが当時の町内の回覧板でわかりました。その頃、ながめ余興場では「出征兵士を送る演芸会」が開かれていました。父もきっと家族といっしょに弁当を食べながら芝居を見物したのだと思います。
75年前、家族や町内の人たちの「万歳」の声に送られて、大間々駅から出征した11月26日がまたやってきます。